
高校時代は、春高が一番楽しかったのは間違いないですね。全国の強いチームが集まるし、インターハイにないもの(テレビ中継)もある。スタンドにはメンバーの父兄だけでなく、東京に住んでいる秋田県の人たちも集まってきてくれて。それがすごくうれしかったし、とても力になりました。
春高を最初に意識したのは、高校に入ってから。それまではテレビで見たりはしていたけど、秋田県勢はいい成績が残せていなかったので「出たら勝ちたい」と思ってました。代々木体育館のあのコートはなかなか高校生では経験できないし、とてもあこがれていましたね。
仲間にも恵まれ、春高には2年連続で出場することができました。一番思い出に残っているのは、1年生の時の3回戦。東北と対戦したときの第1セットを0-15でとられました。それまでも東北とはよく練習試合をしていて、強いのはわかっていたけれど、このスコアはさすがに情けなくて…。入学当初から、先輩もいたのに、僕が主将を任されていたんです。理解してくれた先輩たちと、一日でも長く一緒にやりたかった。それなのに…。それはないだろう、という感じでした。僕たちはこの年が初出場で、東北は優勝候補。確かに強かったけど、なんとか食らいついていきたいと思っていたから「なんだよ…。0-15だよ」という感じで。やっぱり悔しかったから、春高の話をすると、今でもふっとこの試合のことを思い出します。
2年目はやっぱり周りの見る目が違ったのが印象に残ってます。「優勝候補」というような取り上げ方をしてもらって、それなりの試合をしなくちゃいけない、というプレッシャーを感じていました。8強入りはしたけれど、もうちょっとやりたかった、というのが本音ですね。高校のメーンは「春高」だと思うから、その大会が終わってしまった寂しさもありました。
当時から父(義和氏)が監督をしていましたが、「監督の息子」というプレッシャーはまったく感じていませんでした。基本的に怒られるのは自分が一番多かった気がします。ほめられた記憶もないですし。他の生徒と差別なく、厳しくしてくれた。今の自分の土台を作ってくれたことに感謝しています。今でも、正月など地元に帰れば母校の練習を見学に行きます。後輩たちは12年連続での春高出場を決めてくれましたし、頑張っている後輩たちの姿を見るのは嬉しいものですね。
春高に出場するすべてのチーム、選手には、とにかく代々木体育館の雰囲気を楽しんでほしいです。それと同時に、何がおきるか分からないのが春高なので、最後まで諦めずに一生懸命やって、一日でも長く代々木でプレーできるように頑張ってもらいたいです。
◆宇佐美大輔 1979年(昭和54年)3月29日・秋田県平鹿群雄物川町生まれ。雄物川中時代には全国都道府県対抗中学大会(さわやか杯)でベスト16入り。雄物川高に進学し、95、96年と連続して春高出場、主将を務める。東海大時代は4年連続インカレ出場、全日本にも選出されるなど、活躍する。01年NECに入社、ブルーロケッツの一員となる。02年全日本選手権の若鷲賞、03年には黒鷲賞を受賞した。184センチ、84キロ。ポジションはセッター。